フィロソフィを知識ではなく見識に高めるには

以前、盛和塾で創業以来、順調に会社を伸ばしてきた人が、周囲からもちやほやされていい気になっていたら、盛和塾に入って自分はたまたま時流に乗っただけで経営哲学も何もなく、塾長のテープを聞いたり本を読むばかりで、どうしたら心を高めることができるのでしょうかと質問したことがあります。
私もまったく同じ心境でした、世の中のIT化という発展の流れがたまたまあったから会社がここまでこれたに過ぎないと気が付いたからです。
塾長が何と答えるのだろうかと注目したら、「今学んでいることを学び続けなさい」とした上で、「立派な本を多読するよりも一冊の立派な本を一生熟度する方がはるかに効果がある、血肉化できる」と言われたわけです。
そして次のようにも言われました。
「あなたは自ら勉強を始められた。立派な大学を出たとかなんとか、そんなものは関係ありません。まさに、人生は学ぶことが大切なのです。あなたは学ぼうとしていらっしゃるし、もうすでに学びだしている。学び続けていればあなたは今にリーダーシップも経営哲学も身に付けて、また自分のものとして従業員に展開されるようになるはずです」

私もこの言葉を信じてこれまでフィロソフィの学びを続けてきました。
どんなに様々な本を読んで学んでも、その知識を使わなければなんの意味もありません。
それはタダの知識に過ぎないわけです。
弁舌さわやかに知識を開陳し、様々な立派なことを言っても、その人の行動が伴っていなければそれはただよく知っている、いわゆる博識というだけのことです。
まぁ、知らない人よりはいいかもしれませんが、博識であることを鼻にかけて威張っているとなれば、むしろ自分は何も知らないと思っている人の方がましでしょう。

知識は頭ではなく血肉化するところまで、つまり行動に現れるところまで、もっと言えばその人の生き方に反映されるところまでいって、血肉化されたと言えると稲盛さんは言われています。
その段階まで来て、知識は見識となるのですとも言われています。
それは学び続けることでしか得られないのだとも言われています。
同じことを繰り返し繰り返し、耳にタコができるほど言い続け、あるいは言われ続け、それでしか私達凡人は知識を血肉化することはできないのです。
ただの「論語読みの論語知らず」で終わってしまうのです。
フィロソフィも同じです、知識としてただ知っているだけではなんの意味もないのです。

こうして全体朝礼やチーム朝礼、あるいはフィロソフィ研修等々、毎日の地道な学びが大切なのです。
血肉化し、知識を見識にまで高めなければなりません。
そしてその見識をさらに活かし続けていくためには謙虚さが絶対条件だと稲盛さんは言っています。
知識の血肉化によって、つまり見識によってうまくいったとしても「謙虚さを失った時、その人は絶対に挫折する」と断言しています。
「日常茶飯事の態度、従業員に対する態度、業界における態度、あらゆる態度が謙虚であらねばならない」と言われています。
私も耳が痛いですが、トップとして皆さんの物心両面の幸せ実現のためにもフィロソフィの学びの継続と謙虚さを忘れてはならないと思っています。
今朝のフィロソフィは常に謙虚であらねばならないです。


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